加藤は、パリを現代美術における世界の中心のひとつとした芸術家たちの系譜に属する作家である。 パリ!その栄光の歴史から芸術、つまり未来への坑しがたい叫びかけが湧き出したのだった。今世紀の初め、多くの外国人画家や彫刻家が、この都市のもつたぐい稀な雰囲気に魅かれて集まってきた。彼らは、ここでフランスの芸術家に出会い、彼らとの刺激的な対決を通じて自分自身を発見し、自己完成の道を見つけ出した。
美術史上特異なこの出来事は、今日も続いている。加藤のような作家達は、フランス人、外国人の別なく、それぞれが多様な発想をもとにエコール・ド・パリを形成し、おそらく、パリでしか生まれ得ない芸術を創り出し、世界を豊かにした。
かくして加藤もまた、今日、我々の記憶の中や美術館にある多くの作家たち−ルノワール、モネ、マチス、ブラマンク、ピカソ、モジリアニ、フジタ、スーチン、シャガールなどの道に連なり、ブラック、カンディンスキー、ドローネー、デュシャンなどの系譜を引き継いで、ユトリロ、ルソー、ゴッホ、ゴーギャンの道に参加したのだ。
加藤はこれら芸術家の偉大な伝統の中にありながら、誰かに作風が似ているという古典を学ぶ者の弱点から最大に抜け出すことが出来た作家の一人でもある。彼は1940年来、装飾的な作品に陥ることを恐れず、全力をあげてリズムのある構成を探求した画家の一人だ。
同時に、彼の作品は日本の長い伝統から出てきたものであり、日本の精神性から発想を汲み取っている。そして斬新な構図と調和で自己確立を遂げ、現代美術の新しいレパートリーの一つとなった。「錬金術」を感じさせる彼の作品は、独自の感覚を融合させて、新しい芸術を生み出している。
カンバスの上を走り抜ける光の炎のようなフォルムは、その果たす表現豊かな役割によって価値を獲得し、抽象的つまり普遍的な意味を発揮する。重要なのはこの仕事の意味する内容であり、かつてないこの変貌は現実に豊かさをもたらし、新しい現実を創造した。
ところで、加藤芸術には、世界大戦後、現代社会がたどった精神的不安を内に秘めていることも見逃せない。同時に、フォルム、色彩、記号が創り出す大きな構成の中には不安な現代人の問いかけに対する答も用意されている。彼の作品は合理性も非合理性も否定してはいない。知性も感動も否定してはいない。それら全体がイメージの向こう側にある内的な飛翔に我々を直接に誘ってくれる。
作家が、ある線や形を錬金術によって変幻させる時、見るものは自分の内部で同時に起きる変化に気付くものだろうか。作家は生成のエネルギーを喚び起こし、我々が持つ宇宙へのヴィジョンを、いつの間にか変えてしまうのである。宇宙は我々を変え、我々は世界を変え、これらはどこかで一つに融け合ってしまう。これこそが創造であり、作家加藤の声である。
リリックでダイナミックなこの作家は、知性と感動が連繋する「記号」の世界で大いなる探究を続けてきた。
加藤は厚塗りの誘惑には決してのらない。常に清楚なものを好む。絵具が泥水のように飛び散り流れ出した画面は作らない。作品の表面には、グレーと白だけで彩られた大作に至るまで、繊細な炎が燃えている。グレーが大きく波打つ画面には、少しずつ、透き通るように薄明かりのリズムが拡がり、霧が裂けていく。針は止まり、時は消失し、我々はいつの間にか光あふれる清澄な世界の入口にいる。素晴らしい神秘が我々を取り囲み、浸透し、言葉にならない冥想に誘って息を潜ませる。一体この世界の秘密を明かす合言葉は何なのだろうか。彼は我々にそれを打ち明けはしない。
なぜ我々はいつも、加藤の世界のもつこの完璧さの謎を解こうとばかり努力するのだろうか。ここでは光の快楽だけが厳密な構成で形づくられ、震えるような繊細さが簡潔なコンポジションによって支えられ、ほとんど挑戦的ですらある。我々の感動は一体その豪華な色彩からくるのだろうか。あるいはその裏にある目に見えぬ囁くような宇宙の存在からくるのだろうか。
おそらく唯一の答は、純粋な観照に身をまかす以外にないということだろう。加藤の作品のすべては、百万言を費すよりも、現在のエコール・ド・パリが持つ今日性と活力を物語っている。
日本経済新聞主催 西武アートフォーラムに於ける加藤一個展カタログ(1987)より転載 |