飛翔感覚 高階秀爾 Shuji Takashina 東京大学名誉教授、大原美術館館長

 今から15年ほど前のこと、東京の西武アートフォーラムで開催された加藤一の個展のカタログに、私は「飛翔感覚」と題する一文を寄稿した。1958年、絵画修行の志を胸に秘めてフランスに渡った加藤は、当時すでに30年におよぶパリ滞在活動を通じて、確実に自己の個性的な様式を築き上げていた。

 それは、眼に見えない風の精が透明な朝の光を受けて思いのままに乱舞するような爽快なエネルギーに溢れている。空気を切り裂くように鋭くとがった先端を持つ細長い紡錘状の形態が加藤一の見出した独特の基本的な構成要素だが、それらは、緊張したスピード感を孕みながらも決して硬直したものではなく、あたかも伝説の天女の羽衣のようにしなやかで、優雅な曲線模様を描き出す。多彩な輝きを見せる無数のそのような形態が重なり合い、呼応し合う画面は、見る者に地上の束縛から切り離された無限の宇宙に浮遊するような陶酔感を与える。それはたしかにダイナミックな運動を暗示しているが、しかし画家は何か飛行する「もの」を描き出したわけでもなければ飛行の軌跡を記録にとどめたわけでもない。かって未来派の画家たちは、現代的な感覚に基づいて運動を表現するために、例えば走る犬の脚をまるで写真の重ね焼きのように実際以上に何本も並べて描くと言う遣り方を用いたが、そこでも画面に描かれているのは犬の脚という「もの」であり、その「もの」の残像である。加藤一の造形世界は、そのような「もの」の痕跡を一切消し去って、物質的な存在をこえた「飛翔」そのものの感覚を直接に伝えてくれる。私が「飛翔感覚」と呼んだ所以である。

 空中を自在に飛行するものの姿を描き出そうという試みは、洋の東西を問わず古くから行われてきた。西欧絵画ではキリスト教美術でお馴染みの天使や、ギリシャ神話に登場する神々の使者たちがそうであり、東洋美術では仏教寺院の荘厳に用いられる飛天やあるいは天女などがその例である。いずれも飛行する人体を表現した物だが、はなはだ興味深いことに、西欧の天使や神々の使者であるヘルメス神は、翼を持っている。天使は通常肩から大きな翼を生やしているし、ヘルメス神は翼の生えた兜や翼のついた靴を身につけている。それに対して、東洋の飛天や天女は翼を持たない。空を飛ぶ以上、鳥たちと同じように翼が必要だと考えるのはある意味で当然のことであり、西欧の合理的思考をよく反映している。だが東洋の思考は、そのような理屈を越えた自由さを持っている。ゆるやかに風に舞う天女の羽衣や飛天の天衣は、翼がそうであるような意味での飛行の道具ではない。それは飛んでいることの証しと言うべきであろう。西欧の画家たちは飛行の道具を描いたが、日本も含めて東洋の画家たちは「飛翔」そのものを表現したのである。

 加藤一の作品が伝える「飛翔感覚」は、この東洋的な感性とどこか深いところでつながっているように思われる。豊かな色彩の見事な調和と微妙なバランスの感覚に支えられた加藤の作品に、西欧の人々が「神秘」や「謎めいた充実」を感じたとすれば、それは西欧の合理的感覚だけでは捉えきれない何か不思議な豊かさを画面に見出したからであろう。もちろん、新しい試みがさまざまに展開されるパリの芸術環境の中で自己の世界を成熟させていった加藤の作品は、きわめて現代的な新鮮さを見せている。しかしそれは、奥深いところで日本の伝統的感性とつながっている故に、いっそう精妙で清冽な表現世界を創り上げているのである。

平成14年 秋
 
 
 
KATO - パリの日本人 Jean-Marie Tasset ジャン=マリー・タッセ 仏・フィガロ紙美術部長

 加藤は、パリを現代美術における世界の中心のひとつとした芸術家たちの系譜に属する作家である。
パリ!その栄光の歴史から芸術、つまり未来への坑しがたい叫びかけが湧き出したのだった。今世紀の初め、多くの外国人画家や彫刻家が、この都市のもつたぐい稀な雰囲気に魅かれて集まってきた。彼らは、ここでフランスの芸術家に出会い、彼らとの刺激的な対決を通じて自分自身を発見し、自己完成の道を見つけ出した。

 美術史上特異なこの出来事は、今日も続いている。加藤のような作家達は、フランス人、外国人の別なく、それぞれが多様な発想をもとにエコール・ド・パリを形成し、おそらく、パリでしか生まれ得ない芸術を創り出し、世界を豊かにした。

 かくして加藤もまた、今日、我々の記憶の中や美術館にある多くの作家たち−ルノワール、モネ、マチス、ブラマンク、ピカソ、モジリアニ、フジタ、スーチン、シャガールなどの道に連なり、ブラック、カンディンスキー、ドローネー、デュシャンなどの系譜を引き継いで、ユトリロ、ルソー、ゴッホ、ゴーギャンの道に参加したのだ。
加藤はこれら芸術家の偉大な伝統の中にありながら、誰かに作風が似ているという古典を学ぶ者の弱点から最大に抜け出すことが出来た作家の一人でもある。彼は1940年来、装飾的な作品に陥ることを恐れず、全力をあげてリズムのある構成を探求した画家の一人だ。

 同時に、彼の作品は日本の長い伝統から出てきたものであり、日本の精神性から発想を汲み取っている。そして斬新な構図と調和で自己確立を遂げ、現代美術の新しいレパートリーの一つとなった。「錬金術」を感じさせる彼の作品は、独自の感覚を融合させて、新しい芸術を生み出している。

 カンバスの上を走り抜ける光の炎のようなフォルムは、その果たす表現豊かな役割によって価値を獲得し、抽象的つまり普遍的な意味を発揮する。重要なのはこの仕事の意味する内容であり、かつてないこの変貌は現実に豊かさをもたらし、新しい現実を創造した。

 ところで、加藤芸術には、世界大戦後、現代社会がたどった精神的不安を内に秘めていることも見逃せない。同時に、フォルム、色彩、記号が創り出す大きな構成の中には不安な現代人の問いかけに対する答も用意されている。彼の作品は合理性も非合理性も否定してはいない。知性も感動も否定してはいない。それら全体がイメージの向こう側にある内的な飛翔に我々を直接に誘ってくれる。

 作家が、ある線や形を錬金術によって変幻させる時、見るものは自分の内部で同時に起きる変化に気付くものだろうか。作家は生成のエネルギーを喚び起こし、我々が持つ宇宙へのヴィジョンを、いつの間にか変えてしまうのである。宇宙は我々を変え、我々は世界を変え、これらはどこかで一つに融け合ってしまう。これこそが創造であり、作家加藤の声である。

 リリックでダイナミックなこの作家は、知性と感動が連繋する「記号」の世界で大いなる探究を続けてきた。

 加藤は厚塗りの誘惑には決してのらない。常に清楚なものを好む。絵具が泥水のように飛び散り流れ出した画面は作らない。作品の表面には、グレーと白だけで彩られた大作に至るまで、繊細な炎が燃えている。グレーが大きく波打つ画面には、少しずつ、透き通るように薄明かりのリズムが拡がり、霧が裂けていく。針は止まり、時は消失し、我々はいつの間にか光あふれる清澄な世界の入口にいる。素晴らしい神秘が我々を取り囲み、浸透し、言葉にならない冥想に誘って息を潜ませる。一体この世界の秘密を明かす合言葉は何なのだろうか。彼は我々にそれを打ち明けはしない。

 なぜ我々はいつも、加藤の世界のもつこの完璧さの謎を解こうとばかり努力するのだろうか。ここでは光の快楽だけが厳密な構成で形づくられ、震えるような繊細さが簡潔なコンポジションによって支えられ、ほとんど挑戦的ですらある。我々の感動は一体その豪華な色彩からくるのだろうか。あるいはその裏にある目に見えぬ囁くような宇宙の存在からくるのだろうか。

 おそらく唯一の答は、純粋な観照に身をまかす以外にないということだろう。加藤の作品のすべては、百万言を費すよりも、現在のエコール・ド・パリが持つ今日性と活力を物語っている。

日本経済新聞主催 西武アートフォーラムに於ける加藤一個展カタログ(1987)より転載

 
 
 
加藤 一のこと 加藤昌子

 加藤一は、1925年2月7日に東京神田で生まれ、2000年2月10日に75才でパリで歿するまで、絵と自転車競技という二つの道を全力疾走で生きてきた人でした。

 若かった頃は自転車競技にすべてを賭け、終戦直後の1947年から49年の3年間に、国体の自転車競技の各種目で数々の優勝を遂げてヘルシンキ・オリンピックの日本代表候補にも推されています。けれども生家に思いがけずかかってきた巨額の不動産税支払いのため、憧れのオリンピック出場を断念し、プロ競輪に転向せざるを得なかったという当時の競技者としては屈辱的な体験をしています。この頃のつらい経験が逆にバネとなって、後年国際プロ自転車競技連盟の副会長となり、当時抱いた3つの夢、1つは、地位の低かった競輪を国際的な世界選手権種目に入れること(1980年実現)、2つ目は世界選手権者を日本から出すこと(中野浩一がV10を実現、1977-86)、3つ目は世界選手権を日本で開催すること(1990年実現)という3つの夢の実現に裏方として貢献しています。

 一方で絵の方は小さい時から描くことが好きで、紙と鉛筆なしでは生きられない人でした。小さい時は、この時代の子供らしく飛行機を描くことに熱中し、鋼鉄の材質まで感じさせるような精密な飛行機の絵のクロッキーを沢山残しています。父親は加藤が2才のときに33才の若さで亡くなっていますが、加藤は同年齢の33才になった時(1958年)、絵の道における自分の可能性を新たに試すべく、一旦すべてを捨てて日本を脱出し、パリにやってきました。その後42年間、透明な中間色の陽光が気に入ったパリを仕事場としてここに居を定め、パリ画壇からのあらゆる影響から抜け出て、自分自身の“スティル”(style)を創りだそうと、雨が降る日も風が吹く日もアトリエに通っていました。実際ここで仕事をしている時が一番幸せそうでした。

 パリへ来て最初の10年間はさまざまの試みを繰り返しましたが、1960年代の終わり頃より次第に自分自身の“スティル”にたどり着き、その後は誰が見ても加藤の絵と分かる独自の画風を創り上げたと思います。ただし、自転車競技にはゴールの白線があったけれど、絵の道にはゴールがない。逃げ水を追っているようなものだということをしばしば言っておりました。

 「…もちろん私の人生は映画のようにドラマチックではない。多くの私の同世代人とおなじで昭和を生きてきた一日本人のものだ。立ち停まったら倒れる他ないから走りつづけたにすぎない。その上私はどうやら疾走をつづけたいというやみがたい願望にとり憑かれながら今日に至ったらしい。そしてそのモティーフが私の中で消滅したら……いさぎよく墜落するほかないのかもしれない。」となにやら死を予感するようなことを自伝「風に描く」の序の中で書いています。

 けれども私には絵を描きたいという彼の執念・願望は、加藤の一生を通じて遂に消滅することはなく、あの世まで持っていったのではないかと思われてなりません。何故ならば亡くなる直前に忘れられないことばをきいているからです。亡くなる2ヶ月半前まで、癌の苦しみに耐えながら、点滴のケースを腰に下げて、医者も驚く超人的な努力で毎日アトリエに通っていました。こうしてその年、秋のサロンドートンヌへの出品作を仕上げました。けれどもその後は遂に病床に伏せざるを得なくなりました。

 2000年に入って1月の終わり、死の2週間前、モルフィネ注入の合間にまだ意識のある時に、「今一番やりたいことはなあに?」とたずねましたところ、苦しい息の下から即座に一言、「絵を描きたい!」とはっきり言い、これがことばらしい最後のことばになりました。

歿後、アトリエに行ってみましたら、120号の真白な大きなキャンバスが新しくイーゼルの上にかかっていました。それはまるで「これから描くぞ」という意志の象徴のようでした。しかし描きたくとももう体力が尽きている。頭の中で、描きたい絵のイメージは、白いキャンバスの上を鮮烈にそして多彩に駆けめぐったことでしょう。

 目には見えないイメージを満載して、白いキャンバスは、彼が戻ってくるのを待っているようでした。

 
 
Contents are copyright.2007 Hajime Kato & Antakarana

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